↑ 期日が多少前後するが、1980年6月に開催された横田基地航空祭に展示された8SqのF-1/238号機。渡辺氏撮影
 この機の1つ前の237号機は、この年の8月にF-1戦闘機最初の事故機として墜落で失われており、巷に殆ど写真が残っていない。事故は夜間飛行訓練での帰投中の18時20分前後に発生、機体はコントロール不能で下北半島の農地付近に墜ちてバラバラになったが、パイロットの渡辺2尉は幸いなことにベールアウトして無事であった。
↑ 第3航空団のこのマークは、青森県の地図と「3」と航空団の「W」を図案化したものだそうである。当時は、多くの航空団で飛行隊のマークは一元化されて、色違いで飛行隊を区別していたが、数年後には各飛行隊独自のマークに取って代わられた。
↑上3枚の写真は、何れも1980年9月7日 三沢基地のタキシーウェイを牽引されるF-1。胴体の全長は17.85メートル(ピトー管含め)と欧州のジャガー戦闘機より1m程長い。幅は、7.88mとジャガー(8.69)より狭い。つまり翼面積は恐らくジャガーより小さく、空力安定性や航続距離よりスピードを重視した設計である。練習機と攻撃機の兼用で設計され、同一エンジン使用の航空機でも運用思想が異なっていたようである。
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↑ 1980年9月三沢基地に駐機する8Sqの228号機。この前月に三沢の第3航空団では、F-1戦闘機の初めての墜落事故が発生しており(最初のT-2練習機の事故も前年1979年12月に起きていた)、緊張が走っていたはずであるが、航空祭は予定通り開催されている。渡辺氏撮影
↑先頭をタキシーする第8飛行隊のT-2高等練習機。F-1のページではあるが、当面T-2のページ開設の予定もないので、同一飛行隊内のT-2は今後も一緒に掲示して行きたいと考える。 
↑ 3空団の統一飛行隊マークを付けた第8飛行隊(黄色マーク)のカラー写真を私は撮っていないので、此処は、渡辺師匠の1980年撮影の写真を掲載させていただくことにする。航空専門誌によれば、この3色迷彩の各色の呼称は、濃緑が「濃松葉色」、薄緑が「薄松葉色」、タンが「黄土色」と呼ばれていたそうである。
↑ F-1で唯一同一数字が3つ並ぶ222号機。キャノピの風防ガラスには、左右にバックミラーが付いているが、後方視界は御世辞にも良いとは言えない。
↑ 1980年9月7日の三沢基地航空祭で、離陸の為に観客エリアのエプロン前を滑走するF-1の一群。先頭は第8飛行隊所属のT-2で、既に各飛行隊には何機かのT-2が配備されていた。
Pege-1
昭和50年(1975)の第1ロット18機に続き、昭和51年(1976年)発注分として8機、そして昭和52年(1977)予算で再び18機もの予算が確保でき、3年で44機分の発注が確定していたF-1戦闘機は、多い時で月産3機のペースでロールアウトしている。恐らく1980年半ばまでに40機が、防衛庁に引き渡されており、第8飛行隊は、1979年6月からF-86からF-1への転換訓練を開始したとされている。1980年2月の末には、機数も揃い転換が終了して、三沢基地に2つ目のF-1部隊が誕生している。よって1980年の三沢基地航空祭は、第8飛行隊のお披露目航空祭でもあったのだ。
8th Squadron